月別アーカイブ: 2014年8月

音楽談義に花が咲く

みなさんこんばんは。お暇な方の夜のお供「常酔亭日乗」です。

さて今夜はこれまた古い友人との久しぶりの飲み会の話し。とはいっても会うのは八か月ぶりくらいでそれほど久しぶりでもないのだけれど、お互い変化が多いので日数以上の久しぶり感を感じた。変わらないけれど変わっていくのがそれぞれの人生ですな。

まあ、今回はそういう小難しい話ではない。

友人と語らう話題もそれぞれタイプがあって、誰とあってもいつも面白い。それぞれタイプがあるからこそ会話の幅も拡がる。だからこそ飲み会や、人と会う時間は自分にとっても貴重で楽しいものだ。
今日なんかはお互い大きな変化の後だったからその変化が話題の中心になるかと思いきや、いい意味でいつものように音楽談義に花が咲いた。こういうのはお互い共通の音楽を聴いていないとなかなか成り立たない会話なので、なんというかある意味新鮮である。

ある曲のイントロやリフ、歌詞、構成。そんな話はいつまででもできそうだった。音楽というのは素晴らしいもので、それを聴く人々にとってはある意味言葉以上の共通言語になりうると思う。

お互いの最近、近況を具体的に話さなくても、最近聴いているヘビロテな曲やアーティストの話しをしているだけでなんとなくお互いの近況を感じ取ることができる。そんなことを思える会話は稀有なものかもしれないけれど、熱すぎるディベートのような会話なんかとくらべものにならないくらい楽しく、かつお互いの今のリズムをかんじとれるものだ。

「前より穏やかな曲きいてる」「そういえば俺も最近はこんな曲が多い」「なるほど~」「でもやっぱりあの曲聞き返すよな~」そんな会話はやっぱり気持ちも弾むし、あらためて自分の聴いてる音楽が自分にとってどんな意味を持つのか考えてしまう。音楽は感じるものであって考えるものではないだろうから、その時に聴いている曲、好きな曲がやはり自分の気分なのだろう。けれどそういうことにあらためて気付かせてくれるのは、仲間との音楽談義からだったりする。

「音を楽しむ」音楽。いつまでもそうありたい。音楽を楽しむことで会話が拡がり、気持ちに余裕ができる。当たり前にあたえられた日常の特権を、日々たのしみたいものである。

今はなかなか難しいけれど、またフェスのような場所、なにより大勢で音楽の波に身をまかせながら美味しいお酒を飲めたらと思った夜でした。今日は、ひさしぶりにクラプトンを聞きながら。  おやすみなさい。。

迷いと行先

誰でも必ずと言っていいほど迷いはあるし、自分の今いる場所に疑問を持つことも多い。
かくいう私もおおいに迷い、悩み、進むべき方向を失っていたことがある。いまは安定して楽しく、山ばかり登っているけれど(ただ登っているだけではなくいろいろ考えてますよ)。

迷ったときは一度そこに立ち止まって、冷静に状況判断をすることがいいのではないかと自分の経験で思う。こういう時に自分に鞭打って無理をするとますますこんがらがり、状況が悪化することが多い。登山と一緒で迷ったまま歩き続けても行先が分からなくなるだけ。

だから、自分の心が安定してはっきりと次の一歩、実行に踏み出せるときに動けばいい。無理をしないで、自然に運ばれるように、正直にいるとなにかが決まってくるように思う。

それでも行動しはじめて、うまくいかないことがある。「折角動きだしたのに・・・」そう思うことも何度もある。それでもだめならまた休む。休んでいると何か違った考えや、アプローチが生まれる。その状況を判断して、そこからまた一歩。だめなら止まり、続いたら進む。それで堅実な足取りとなる。

とにかく迷ったときは急がない。慌てないで状況を判断すれば、おのずと状況は好転してくる。

そんなことをふと思った夜です。お休みなさい。

 

あの夏の日。

お盆も過ぎると夏の終わりが近づくのを感じる。大人たちのお盆休みはあっという間に通り過ぎ、永遠に続くように感じた子供たちの夏休みも終盤に差し掛かっている。

さて、大人になってからの夏休みというのは、限られた時間のなかで旅行に行ったり、家族持ちは子供と遊んだり、なんというかわかりやすい日々のように思う。制限された時間の中で何とかいろんなことを詰め込んだり、逆になにも出来ずに無為に過ごしたり。

けれど、子供にとっての夏休みというのは、何をするでもないのだけれどやはりそれは濃密な時間だったように思う。これはいまでは味わえない感覚ではないだろうか。子供にとって夏であり夏休みであるこの時間は、時間の制限や区切りが存在しない、今では想像のつかない、得体のしれない解放感に放り出されたような日々だったのではないのだろうか。

じゃあ何をして遊んでいたかというと、あまり確固たる記憶は多くない。ラジオ体操??ほとんどいってなかった。町内会長でハンコ押す立場だったのにさぼり続けてた。僕と同じ町内に住む子供たちはいつも隣町の先輩からハンコをもらっていたらしい。
旅行??うちってそんなに行ったっけ?特に大きな思い出はないような。。帰省というのは必ずあった。これは結構なイベントだった。親族が集まるそのイベントはどんな祭りより強烈なインパクトとして刻みこまれている。

それはさておき帰省でも旅行でもない日々がほとんどを占めていたはずの夏休みに僕はなにをしていたのだろう?読書?野球? ファミコンはほとんどしてなかったし、好きでなかった。

祭りの記憶はある。いつも誰かとではなくて、500円玉を握りしめて低学年から一人でお祭りをうろうろしていた。放置していた親も今思うと適当である。今でも人が集まる飲み会や、祭りごとみたいなイベントが好きなのはこういう記憶から来ているのだろうか?

きっと、ほとんど昼寝とか、麦茶飲んでダラダラ過ごしていたのかもしれないけれどその時間は濃密で過ぎるのが毎日遅かった。よく大人の時間の流れは速く、子供は遅いというけれど、これはなぜなのだろう。

子供は「現在」のなかに生きているから長いのではないのだろうか?子供が何か月か後のことを意識して生活をすることはなかなかないだろうが、大人は休みが終わった月曜日のことを意識して過ごしている。それは「現在」ではなくで「流れ」のなかにいる大人にとっては仕方のないことだ。子供は「流れ」を意識しない。今ある「現在の自分」の時間を生きている。流れるものでも止まるものでもないその子供たちの時間が、濃密なものとして止まって感じるのも「現在」のなかにいるからなのかもしれない。

大人になっても「夏」は来る。けれどあの濃密な「夏の日」はもう訪れることはない。子供と同じ「夏休み」は二度と大人には訪れないから。

無時間の夏を求めて必死に夏を過ごしても、もうあの「夏の日」は来ないことに気が付くだけなのかもしれない。

変わるもの、変わらないもの

みなさまおひさしぶりです。
お暇な方の夜のお供「常酔亭日常乗」です。しばらく書いてないと、文章力も落ちます。ブログの書き方忘れました(笑) 久しぶりなのでリハビリ投稿です。

さて、しばらくブログを書かずにいると、小生の健康状態や、消息を心配してくださる方がいて、本当にありがたいです。いたって元気ですよ。休みもらっては山に登ってますので。山レポートは、ミレーストア東京のブログをご覧ください。

今日も変わらず、朝から北アルプスの山を登っていたわけですが、書きたいことは登山のことではない。

下山して上高地から新宿に戻ってきたあと、大学時代の古い仲間と久々に飲みだったわけです。山で9時間歩いた後に飲み会はしんどいですが、人と人の距離が離れているとなかなかあえるものではありません。FBだSNSだなんだでつながっているように思えても結局それは表面的なもの。やっぱり顔を合わせて合わないと相手のことなんてわからないと思うのは古い人間でしょうか。そんなことはないですよね。それはさておき、まあチャンスを逃すとどこか後悔が残りそうだったので、疲労困憊でも飲みに行きました。基本会える時に会える人にちゃんと会う自分でありたいものです。

ひさびさに飲んだ仲間は元気で、当時のままだ。いや、当時のままというのは語弊がある。彼を含め、周りの仲間は所帯をもち親になり、一家の主であり、縁の下の力持ちだ。本当の意味で変わってないのは小生とあと数名か(笑)

それでもやっぱり仲間とあうと、その当時から変わらないところを感じたりして安心することも多い。言葉の奥にあるものや、言葉そのものだったり。

そんな根っこが変わらない仲間もやっぱり大きく生活は変化していて変わりゆくことに囲まれている。それは子供の成長だったり環境の変化だったりする。

変わりゆくものは時に困難を伴ったり、混乱をまねくこともあるけれど、その変化は未来につながっていることが多い。子供の成長はきっとその最たるものだろう。(嫁も子供もいない男のかなしい想像ですが(笑))
その未来の可能性は計り知れないものがある。変わりゆく未来とともに生活していたら、きっと自分自身が選び取る未来も変わっていくのだろう。

けれど、きっと変わらないもののなかにも大事なものがある。変わらない考え方や目標から生まれる強い意志もあるだろうし、変わらないから尊いものもある。それは抽象的なものかもしれないけれど。

変わりゆくもの、変わらないもの。きっとどちらが欠けてもダメで、偏りすぎてもバランスが崩れる。上手くバランスを保ちながら、自分の道を見極めていきたいものである。

P.S 世の男子諸君
「変わらないからあなたはダメなのよ。。」こういうセリフを言われないようにね(笑)変わらないよさも自分の核としてしっかり持っていれば言われないのかな??  まあ考えるのはよしましょう。

お休みなさい。。。