月別アーカイブ: 2014年9月

冬がはじまるよ。

先週16日、旭川地方気象台は、大雪山系旭岳の初冠雪を観測したらしい。平年より9日早く、昨年より3日早く、今季全国で最も早い雪化粧だそうだ。その便りに促されるように、スキー仲間とお酒を酌み交わす。本当は一杯だけの予定だったのに、今年行きたいスキー場、やっぱり欲しい太板。昨シーズンの反省(笑)。進歩しているのかしていないのかわからない自分たちの技術について。語りだしたらきりがなく、結局終電手前。そんなわけで、僕等の気持ちはもうすっかり冬なのである。

都心も秋を通り越して一気に冬なのか?というような涼しい日が続いている。この秋から冬に向かう季節が僕は一番好きである。空気は冷たく、朝の街は凛とした空気を纏う。窓をあけると心なしか町は静かになってきているようだ。聞こえる虫の声はいつのまにか蝉ではなく鈴虫。今これを書いている時も、夜気がひんやりと肌に滲みてきている。

雪山への誘い、スキーという楽しみ、雪景色への期待。萌えいずる緑の季節もいいけれど、無音に近い白一色の荘厳な景色と向き合うことで、生きてる実感が強くなる。だから早く冬が来てほしい。実は一番好きな季節。体調はばっちり、熱燗も旨い。おでんも鍋もいい。季節の味わいをより深く感じる冬。

寒さが逆に暖かい。そんな冬が僕は好きです。

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山の魅力 槍ヶ岳

こうしてブログを書いている僕も多分に漏れないのだけれど、人は往々にして自分のしてきた素晴らしい経験や面白さを誰かに伝えたくなるものではないだろうか。

FBにおける日常の投稿の多くは、そういう心理からきているのだろう。それはそれで決して否定することではない。誰かの経験を通して何かに興味をもったり、行ってみたいと思ったりすることはとても自然なことだ。

僕が最近一番伝えたいと思うことはまあ山登りの魅力である。たまに書評やらなんやらだらだら書いているけれど、それもこれも自分が感動したり影響を受けたりしたから誰かにも同じように感じてほしいと少なからず思っているから続けている。だから、たまに「あの本読んだよ」とか「あの山行きました!」っといわれるととてもうれしくなる。ああ、少しは伝わってよかったと。

今はありがたいことに、やりたいことを生業として生きている。人が心の底からやりたいと思うことは、誰かに押しつけられたりするものではなく、きっと自分で見つける以外に方法はないのであろう。

山の本当の魅力は登らなければわからない。登山でもなんでも本人が選び取るべきものではないだろうか。

「いつか槍ヶ岳に登りたい!」それも本人が選ぶべき選択。誰かに言われて登る山じゃない。でも思い続ければ案外すんなり登れる山です。誰もが憧れる槍の穂先。さあ、あなたもいつかのぼってみませんか?

登りたい人、ガイドします(笑)

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Young Love (青春の終わりに)

題名はサザンの昔の曲名です。CD持ってる人はききながら読んでください。

今日、本当にふとした所から約11年前!?の写真が出てきたという連絡をもらった。その写真の写真付きで(笑)。11年前の少人数での飲み会の写真だ。しかもそれは当時僕が凝っていたポラロイドの1枚。つまり世の中に1枚しか存在しない写真だ。デジタル化、シェアが当たり前の今ではなかなか考えられないポラロイドの1枚。そこから喚起され、よみがえった記憶は自分でも驚くほど多かった。(写真の一日は完全に記憶になかったけれど(笑))

最近、過去の自分が書いた文章で深く考えされられたことがあったけれど、今回は過去の自分達の表情から考えさせられることがたくさんあった。別に昔を懐かしんで「あのころは、、」などという話をしたいわけではない。ただ一つだけ、あのころは青くて真っ直ぐな日々だったなあと、いま10年たって自信をもって振り返れる財産のような時間があることが単純に嬉しい。

写真1枚でいろいろ記憶をたどれるけれど、思い出せないこともある。「あの膨大な雨待機の時間に僕らは何をしていたのだろう?」「たまり場では何を話していたのだろう?」「学年会ってなんだっけ?」

いまから思えば、無駄な時間、貴重な時間の浪費の日々だったのかもしれない。けれどそんな無駄ばかりの時間のなかで、自分達の行く先も見えないままに、目の前にある問題や課題に対して、無い経験値と頭で考え続けながら必死に過ごした日々の濃密な積み重ねは、どんなメソッドや方法論なんかより自分達のなかで確固たるなにかを築き上げたのではないだろうか。

あの写真、撮った時期は定かではない。でも今とはどこか違う楽しそうな顔。あのころと同じ笑顔では今はきっと写真には写れないけれど、当時と負けないくらい、いやそれ以上に、今という時間をちゃんと生きているという顔でいたい。歳を重ねると人となりが顔に出るからね(笑)

写真をみて過去を振り返るにはまだまだ早いけれど、過去の自分の声に、もう一度耳を傾けることはこんなタイミングでしてみてもいいような気がした。

懐かしさと共に、みんなを思い出して美味しいお酒をいただいたとてもいい夜でした。
いつか昔の写真を囲んでいいお酒が飲める日まで!
みんな今を楽しみながら頑張ろう!

それでは、みなさんおやすみなさい。

サザン新曲!!「東京VICTORY」

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本日はサザンの新曲「東京VICTORY」の発売日。僕は昨日わざわざ新宿まで買いにでかけてすでにGETしました!

ストレートでポジティブな未来への応援ソング。でも、どこかに時の移ろいにたいする哀愁を感じるのは桑田の歌詞の力だろう。〈二度と戻れぬ故郷〉とかさまざまな捉え方ができる。こんな時代に世を憂う歌を歌うことは、誤解を恐れずにいうのならば容易なことなのかもしれない。逆にポジティブな歌を歌うことは、ともすると難しいことのような気もする。

まっすぐな言葉とサザンのメロディー。これだけでファンである僕は十分満足です。さあ、一歩前へ!!

『どうせ生まれたからにゃ 生命の限り旅を続けよう』
『友よ Forever young みんな 頑張って』

この歌とともに、今自分の中にある大事な、そして新たな目標に向かって、さあ今日からがむしゃらに駆け巡ろう!!

今年はサザンとしては9年ぶりの年越しライブ。そして名作「キラーストリート」以来のオリジナルアルバム年内完成。今年はまだまだサザンから目が離せない!!

サザン、素敵な曲をありがとう!!

クライマー ~パタゴニアの彼方へ~

今日は、錦織のUSオープン準優勝とかいろいろ書きたいことがあるのだけれど、それは報道のみなさんにお任せするとして、今日の休日に観てきた映画を紹介したいと思う。

僕は映画観賞とやらは、まあそこそこ好きなのだが、本来的に出不精なのか、なかなかめんどくさくて映画のためだけに街に出ることはない。前に一人で観に行った映画は何だっけ?ああ「アウトレイジ ビヨンド」だ。なんだかなあ(笑)やさぐれてる。

それはさておき今日は、錦織の試合を生で見るがために早起きしたので一日の時間がたくさんあった。こんなチャンスはまたとないということで、前々から見に行きたいと強く思っていた映画を重い腰を上げて見に行くことにした。といっても今話題のスタンドバイミーど○えもんとか、アナ○雪の嬢王(なんかちがう?)とかそういうたぐいの映画ではない。

わざわざ新宿まで、人の多さに酔いながら観にいったのは「クライマー パタゴニアの彼方へ」というまあマニアックなノンフィクション映画である。登山をやる人やクライミングをやる人なら一度は聞いたことがあるかもしれない名前、クライマー「デビット・ラマ」の南米パタゴニア、セロ・トーレ南東稜のフリー化への3年にわたる挑戦の記録だ。

セロ・トーレという難攻不落の山が若き天才クライマーにもたらしたものとは何だったのか。クライマーとはどんな人間なのか。そこに肉薄していく本作品のスケール感はすごかった。その登攀は命を削り、圧倒的な困難に向かっていく天才の苦悩。ドキュメンタリー、ノンフィクションだからこそのリアルな感動。そしてパタゴニアの大自然がもたらす究極の映像。何度も息をのみ、手に汗握るシーンの連続だった。興味がある人、あとは劇場で確認してください。

「山が人を育てる」そんなことをあらためて思わせてくれた映画だった。きっとそれは一流のクライマーに限らない。登山が好きな人や、目標とする山を持つ一般登山家にとってもきっと共通することなのではないだろうか。

映画を観た後、影響されやすい僕は、家に帰り、腕立て伏せ。腹筋。背筋のトレーニング。別にクライマーじゃないけれどデビットの熱に触発されてしまった。お陰で疲れたよ。

錦織の試合でテニスの緊迫感を思い出し、デビットにクライミングの魅力を再確認させられた。頭ではなく身体の内部が反応を起こした一日だった。なんでしょう、疲れました。でもこの疲れは嫌いじゃない。自分のなかの、ある種忘れていた緊迫感をよびさましてくれた気がする。

いい休日だった。明日からも頑張ろう。それではおやすみなさい。

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朝からパスタ!

山から街に戻ってきて、一週間がたったけれど、 下山してから食欲がとまらない。人間の身体というものは意外とわかりやすくできているようで、体力の限界まで近づいて行動した後は、それを回復させるために食事をとらせようとらせようと、空腹感が続く。

そういう時は、無駄に身体の声に抗うことはせずに、素直に食べるようにしている。そうすることが疲労回復につながるような気がするので。ちなみに医学的根拠はありません。しかし、眠りたい時に眠り、食べたい時に食べるというのもシンプルな健康法のような気がする。勿論、惰眠を貪ることや、暴飲暴食になってしまっては本末転倒だけれど、身体の声に耳を傾けるということは心身のバランスをとるうえで重要なことなのではないだろうか。赤ん坊をみればよくわかる。お腹が空いて泣き、満たされると眠る。大事なことはそういうことだ。人間そんなに必要なことは赤子のころから変わらないと思う。

前段が長くなったけれど、ここ一週間、空腹で目覚めることが多いので朝からしっかり食事を摂っている。まあここ一週間というか転職して朝の時間にゆとりが出来てからずっとだ。今日のようにパスタを朝からガッツリいくこともあれば、夏場であればそうめんやそばをササッと食べたりもする。そのかわりといってはなんだけれど昼はここ数年ずっとおにぎり二個。少ないようにも思えるが、それほど体力をつかうわけでもないので意外と足りる。そして夜、炭水化物は一切とらない。これが最近の食生活。

社会人になってから10年以上朝食は摂らず、カフェオレだけ飲んで出社する生活を続けてきた。忙しいリーマン生活では仕方のない選択だったのかもしれない。しかし、当然ながら朝食を食べている今のほうが元気だし、体力、身体、体重、諸々バランスがとれているように思う。

食事ということについてなんやらと考えはじめるとなかなか奥が深い。わかっていることは食べなければ身体も頭も働かないということ。だとすると答えは簡単。「まずは朝ごはんをしっかり食べよう!」っということだ。朝エネルギーを補給しなければ一日はきちんと乗り切れない。こんな単純なこと、なんで十年以上考えずに朝飯抜いてたんだろうっと最近おもう 。食べることについて考えることは生活を考えることにも繋がる。もっと日々の食事を大事にしないとなあ。

そんなわけで、朝からパスタ200g!!美味しくいただきました!!
それでは今日も元気にいってきます!!

村上春樹 読後メモ 2011年1月11日

机を整理してたらこんな読書カードというか、ものすごく汚い字で走り書きしたメモが見つかった。

「村上春樹の本の主人公は、たいていの場合、その人にとって重要な何かを探している。奇妙な状況を潜り抜けながら冒険の途中で変化が起こり、欲していたものを見つけることで終わる。しかしその間に探していたものが意味を失ってしまい目的につくことが重要でなくなる。物語の真の意味は探そうとするプロセス、探求の運動のうちにある。主人公ははじめとは別人になっている。重要なのはそのことである。 2011年1月11日」

これをメモしたのは「1Q84」の読後でもないと思う(時期がずれてる)。何か過去の作品を読み返したときのメモだろうか?正直記憶がない。

そもそも、自分で書いたのか?自分の言葉なのか?たしかに字は鉛筆書きで自分で書いてるが。。それは今となっては定かではないけれどちょっと自分の視点に驚いた。今はここまで真摯に本を読んだり考えていないような気がする。本気で物語を読んでいないのかもしれない。

昔の自分に気づかされた。あらためてしっかり物語と向き合おう。読書術なんてものは絶対にいらない。そんなものは存在しない。ただそこにある言葉と物語に自分の感性で向き合うこと。読書はそれに尽きるのではないだろうか。

さて、今宵も文学の世界へ。 おやすみなさい。。。

お酒を美味しくするもの。。

突然ですが、本ブログを書いている小生はお酒が好きである。三度の飯より好きである。この事実にまつわることはいくらでも書けそうだけれど内容がくだらないのでほどほどに。

「酒飲み」「呑兵衛」「酔っ払い」どれもあまり世の中的にはいい響きではない。でも同類項の方々にとっては愛すべき通称であり、親しみやすい人間が浮かぶのではないだろうか。例えばこれが「酒乱」「酒癖悪し」とかになったらもう付き合う必要がない人間あ浮かぶのだけれど、今回はいい酒飲みの酒のたしなみ方について考えてみたい。とはいえこれを書いている小生も今多少酔っているので乱文になっていたらもうしわけありません。

お酒をたしなむ人もその楽しみ方は多種多様である。独り孤独にお酒と憂いを楽しむ人もいれば、多人数でワイワイと楽しむ人もいる。私はどちらも好きな飲み方ではあるけれど、どちらかというと後者の飲み方がすきである。意外と、独りで飲んでいると頭が冴えてきて、余計眠れなくなったりして深酒になることがある。大人数で飲んでいると、右肩上がりのテンションと共に酔いもまわり、適度??にお酒に酔うことができる。「嘘つけバカヤローーお前泥酔担当だろ!!」っという反論があるかたもいるかもしれませんが公の場なのでそういうのは許してください。

まあ、話したいことは独りと大人数の飲み会の違いではない。

お酒に関しても、美味しい酒とそうでない酒がある。お酒そのものの良しあしももちろんなのだけれど、いい酒とそうでない酒の区別はこの場合とりあえずおいておこうと思う。そういう蘊蓄(うんちく)は、好きな人に任せます。私もそういう話は大好きだけれどくどくなるのでやめます(笑)

お酒を美味しくするもの。それが今日言いたいことである。みなさんはなんだと思いますか?

料理! ものすごい大事ですね。お酒との相性というのはその種類によってやっぱり変わります。これは絶対的な事実です。ビール、ワイン、日本酒、ウィスキー。やっぱり合う料理、合わない料理はそれぞれある。つまみが不味いと、お酒だけ飲み続けることになるので身体にもよくないですな。

それよりなにより、お酒を美味しくするものはなにか。  青臭いことを言うようですが、やっぱり一緒に飲む仲間ではないでしょうか?

大人になってお酒を飲む機会が増えました。(そもそも子供は飲んではいけない)。その究極の目的は、やはりその席で交わされる会話にあるのではないかとあらためて思うわけです。いろんなタイプの人間がいて、そのそれぞれの価値観と触れ合う機会。大人になった今、飲み会がその機会の場のような気がするのは昭和の人間の感覚なのかもしれない。

けれど私は飲み会でかわされる、たわいのない話しから拡がる縁や、仲間の輪というものを信じたい。今までそうやって人の輪が拡がってきたし、これからも拡がるだろう。もちろんそれ意外でも必ず人の輪が拡がる場はいくらでもある。それはそれです。いろいろ拡がりの機会はあるけれど、すっと人と向きあえて「いいお酒だった」とおもえるのは、やっぱりいい出会いや素敵な仲間と飲めた時です。お酒ばっかりに頼るのも確かにどうかと思うけれど、未だに「飲みにケーション」の力も馬鹿にできないと感じている今日この頃でした。

はい、ほろ酔いブロガーの「酒呑みの自己弁護」でした。みなさま日々良きお酒を!!  おやすみなさい。。。。。

休息。たまにはのんびりと。

山を縦走したあと、飲み会が続き、心身ともに疲弊しきってしまっていたので完全なるOFFの1日。心身ともにというのは違うな。心は充実してる。まあ、今日はテーマなく書き連ねます。

山に抱かれた三日間は、自分の体力にもまだまだ伸びしろがあると確信できた三日間だった。登山レポート書こうと何度もPCに向かったけれどなかなか筆が進まない。こういう時は書きません。待っていてくれるかたしばらくお待ちください。

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でもせっかくなので写真の一部を公開。「夕陽とジャンダルム」です。次に登るは天使の住む山ジャンダルムだな。槍も本当にかっこいい山だけどジャンもこうしてみると画になるね。登るにはもっと岩場に慣れないと。いい目標ができました。きっと近いうちに行くでしょう(笑)

さて、昨日はというと前職の同期会。同期といっても半数以上は転職したりで新卒で入った会社からは離れている。僕もまあその一人なのだけれど。残った人、離れた人、理由は様々だしどの選択が正しいとかそういうことはどうでもいい。ただいまだにみんなで馬鹿話ができる「同期」という一種特殊な関係はこれからも続くだろう。ただただ楽しくいい時間だった。いつか昔みたいにみんなで旅行に行けたら面白そうだな。それぞれ別のフィールドで頑張っている同期達に今日も乾杯!!

今日は一日中眠っていたのだが、ダラダラしているというレベルではなかった。きちんと12時間眠ったあと、昼食をたべてすぐに3時間さらに睡眠。あっという間に一日が過ぎていった。しかしよくよく考えると山小屋では横になっているけれど熟睡はできていないし、飲んで帰ってくるとやっぱり遅くて睡眠時間は減る。寝だめはできないとよくいうけれど、人間本当に疲れているときは睡眠が一番の回復なのだと実感する。眠っても眠っても足りないと思えるのだから。普段あまり眠りは得意ではないけれど、久々に「おお!!寝たなあ!!」とおもえる充実の睡眠だった。これってなかなか幸福な瞬間である。不思議なもので眠っているだけなのに腹は減る。食って眠る。贅沢な休日だ。でもよくわからないが罪悪感を感じてしまうのは貧乏性な証拠かもしれない。

山を登るようになってから、休日を山で過ごすことが多くなった。冬になるとスキーにいく。最近気づいたが、随分と旅行というものをしていない。最近その楽しさをすこし忘れている。目的もなくちょっと遠くへ足をはこんだり、見てみたい景色を求めていったり。旅行の醍醐味はいろいろあるけれど少し旅から離れている。山旅ばかりじゃ視野は拡がらない。たまには普通の旅行に行こうか。沖縄なんかもいいかもしれない。海、、いってないなあ。。

おっと、また睡魔が襲ってきた、、お休みなさい。。

 

 

 

自分の中の自分

随分前のはなしになるけれど小説「24人のビリー・ミリガン」の作者、ダニエル・キイスが今年亡くなった。僕は彼の著作のファンであったのでかなり衝撃を受けたニュースだった。

代表作には映画化もされた「アルジャーノンに花束を」があるけれど、インパクトが強かったのは「ビリーミリガン」のシリーズだ。これは多重人格という障害について真っ向から向き合ったノンフィクションでもあるし、小説としても読めるかなりショッキングな本だ。当時1980年代にまだ「多重人格」というものが認知されていない時代に、そのとある現実に真っ向から向き合い、世に問うた記念碑的作品である。

今回書きたいことは書評ではない。

「多重人格」というものについてすこし自分のレベルまで落として考えてみようということなのである。

人は誰しも「人格」が変わるほどではないかもしれないけれど、多かれ少なかれ、自分のなかにいくつかの自分がいるのではないだろうか?あの人と一緒のときの自分、家族といるときの自分、仕事のときの自分、恋人といるときの自分。思い返すと様々な自分が思い浮かぶのでは?

格好つけるとかそういうことではなく、なんとなく自分がいつもと違ったり、違うように演じていたり、違和感があったり、意識して切り替えていたり。結構自然に棲み分けができている。アイデンティティとかそういう「根」の話ではなく、もっと些細なことだが。

それがいい悪いではないのだけれど、自分のなかのどれが本当の自分なのかについて悩むことは誰しも経験しているかと思う。まったくそういうことで悩んだことの無い人はとても幸せなことだしそれは自信をもっていいことなのなのかもしれない。

悩みの例。例えば、片一方では「いい父親でいよう!!」と頑張る自分がいる一方で「自分の思うように振る舞おう」というような話だ。きっとどちらも自分の思う大切な自分なのだけれどそういう多くの自分に悩まされることはきっと生きているなかではたくさん出てくるのだと思う。「正と悪」「環境と自分」「人と人」。いろんな価値観や考え方によって自分の中の自分が闘ったり、ぶつかったりする。時にはそれによってなにも出来なくなることだってあるかもしれない。

よく「自分の心の声に正直に」といったような言葉も使われる。それはまさにその通りなのだけれど、少し視点を変えれば「自分の中の自分」を選び取る行為のことをいうのではないだろうか。こっちの自分はこう考えているのだけれど、違う自分が違うことを思っている。

どんな自分、どんなことを考えているときの自分が本当の自分なのかに気づくにはきっと生きる時間が必要かもしれない。でもおそらく、なにも考えずに、無理をしないで自然体でいられる自分が本当の自分なのだろう。だから多くの「自分の中の自分」のなかでも、それをすんなりと受け入れることができる自分に出会えた時に、きっといろんなことがはっきりと見えてくると思う。つまりは「自分の中の自分」と向き合うとは、自分の価値観を探すこと、自分の芯を見つけ出す行為なのかもしれない。今はわからなくてもきっとどこかのタイミングでその大きな葛藤のようなものから解放されることできれば素晴らしい。

自分の中の自分を感じ、選び取ることが一つの大きな決断につながるのかもしれない。

 

それではまた、、お休みなさい。