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「男のヨガ」(常酔亭日乗2013年10月26日)

なんだよ!今週よていないのかよ!!ってことで冴えない週末が続いてる。そんなわけで今日のテーマは男のヨガである (どんなわけだよ!!) 。

僕は、生活に運動が欠かせない人間ではあるのだが、何か能力を伸ばそうとしたときに必ず弊害になるのが異常に硬い身体である。一時期ストレッチを毎日やっていて結構柔らかくなったのだが、暫く休むとすぐに硬い身体に戻ってしまう。それではボルダリングが上手くならないので、柔軟性を上げようと遂に購入した本がこの「男のヨガ入門!!」である。

前々から「ヨガ」というのには興味があったのだが、どうしても世間的には「ヨガ=女性」のイメージが強いし、事実ほとんどのヨガの本は本屋では女性誌や美容のコーナーみたいなところにあってなんか近寄ることも出来ない(笑) 周りでヨガやってる男になんてであったこともない。一回ストレッチ用に「ヨガマット」を買おうかと、スポーツ店のヨガコーナーに行こうと試みたこともあったけれど、これまた売場は女性ばかりで近寄れず、遠くから眺めることしか出来なかった。

こりゃあ、自分でやるしかないと思い、本屋の美容コーナーではなく、スポーツコーナーにあった本書を勇気を出して買った次第だ。DVDも付いていて丁寧そうだったのも購入の動機。

早速、家路を急ぎ、DVDを再生。ヨガをするお兄さんのポーズを真似てヨガをしてみる34歳。自分でも思うが、これはかなり不気味な光景である。
それはさておき、全然入門でもなんでもない!!最初の「やさしいハトのポーズ」すら股関節が壊れるかと思った。そもそもこの「やさしい」はポーズを修飾しているのではなく「ハト」を修飾した言葉なのではないかと疑ってしまう。だって、事実やさしくないから。実感は「小難しいハトのポーズ」である。機嫌の悪いハトである。

その後も一応一通り約一時間のDVDに合わせてやってみたけれど、まともに出来たポーズは「おやすみのポーズ」くらいだ。んでもって、結果、今、胸筋が異常に痛い。胸骨の周りが痛い。無理してやって痛めたようだ。柔軟性を上げようとして故障した。。完全に本末転倒である。もうヨガは暫くいいや。。。

胸が痛むのは恋の病だけにして欲しいものである。お後がよろしいようで。。(了)

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「『オー!ファーザー』伊坂幸太郎著 読了」 (常酔亭日乗2013年7月8日)

伊坂幸太郎は優れたストーリーテラーである。初めて「オーデュポン祈り」を読んで衝撃受けてから、ずっと彼の本は読み続けている。
ファンの方も多いのでは?

本書に限らずどの本も読みやすく、毎回読み進める手が止まらない。純粋なミステリーというわけでもなく、例えば東野圭吾のような謎解き的要素は少ないけれど、想像したこともない設定(本書ではお父さんが四人いるという奇妙な設定)から織り成される、先が想像できない小説は、他に類を見ない。

彼の作品が、映画化は困難と言われながらも多数映画化されている事実は、作品そのものに人を惹き付ける大きな魅力があることを証明していると思う。

本書の内容はファンの方の為にネタバレを避けて書きませんが、まあ面白かった。登場人物の四人のお父さん達の言動は含蓄があるようで押し付けがましくない。軽快なテンポで交わされる息子との会話は笑ってしまうことしばしば。一人一人のキャラクターが愛すべき人間達で、まるで落語の登場人物みたいに憎めない。

いろんなジャンルの本を読んで世の中を考えたり、知識を増やしたりする事も楽しいけれど、純粋にストーリーに身を委ねる読書は、その世界に没頭することで逆にリラックス出来るし、ストレス発散なっていいものである。

純文学といわれるものには違和感を感じる人も多いかと。そんな人にこそ、堅苦しくなくテンポのいい、伊坂幸太郎の小説がお薦めです。(了)

平日の午後

平日の午後に休んで家にいると、自分の普段とは違う日常が流れていることを実感する。そしてそれは仕事に追われる日常とは異なり、こんなにも時間というのはゆったりと流れているものなのだと気付く。近所の高校からは吹奏楽部の練習の音が聞こえ、下校中の子供達の声が聞こえてくる。スーパーの店内は夕方の買い出しで慌ただしかったけれど、買い物に行って帰ってきても、たかだか30分だ。 同じ30分でも会社にいたら全く違うスピードで時間は流れていく。

よく「時間活用術!」「スキマ時間を有効に!」と世の中は効率よく物事を進めることがいかにも大切で重要なことだと声々に叫ばれているけれど、果たしてそれは正しいことなのだろうか?確かに仕事を効率よく進めることは大事だし必要なことだ。けれどその考え方だけに支配されて、日々の時間を埋めることだけに生活が支配されていたとしたらそれはとても窮屈だ。そこから豊かな発想や想像は生まれない。考え方の幅も、時間を埋めていくことに支配されて逆に拡がらないだろう。おおいなる無駄から生まれるなにかもあるはずだと思いたい。

決して時間活用術を否定する気はない。けれど、「ああ、今日の夕陽は綺麗だな」 と思える余裕や、「自分の部屋からもこんなに綺麗な夕陽がみえること」に対する気付きくらいはもてるような、心にゆとりをもった時間の流れを自分の中に持ちたいものである。