ライバルと共に


  最近、なぜかはわからないのだけれど、また落語が面白い。

落語というものに触れたことがある人は少ないだろうけれど、少しでも興味があれば一度勇気をもってキチンと聞いてみてほしい。その魅力は計り知れないから。まあ今回は落語そのものについて語りたいわけではなくて、表題の「ライバル」っていうのがテーマだ。

なぜ唐突に落語をまた聞いているのかは自分でもわからない。なんというか、酒や煙草に似た禁断症状みたいなものだろうか。「しばらく距離を置いてたけど唐突に会いたくなったの!」的な(笑)。

そんな禁断症状といえば落語と同じくして定期的にやってくるのが「ビートルズを聴きたい!!」って感情。これ、いきなりやってくるのよね。音楽への熱が冷めはじめるとなぜか自然と彼らのアルバムをCDラックから取り出す。意図したわけでもなくなんとなく。そんなわけで、最近また「落語」と「ビートルズ」が生活の中での「聞く」ということの中心なのだけれど、それを続けていてふと気づいたことがある。まあ気づいたというよりそれぞれのファンであれば誰もが思うことなのだけれど。

その気づいたこととは、談志には志ん朝が、ジョンにはポールがいる。つまりは天才、いや、「鬼才」といわれるひとの横には「天才」がいるっということ。この関係性には本当に共通性が多い。例えば談志とジョンが投げかける言葉には、かたちは違えどその同時代に対する怒りや、自分の懊悩的な要素があった。政治的とか批判されても自分の意見は徹底して貫いていた。

それに対して、これは勝手な個人的解釈だけど、志ん朝やポールはなんというか「王道」っていう感じだ。「古典」や「ラブソング」。ある意味ではスタンダード。でもかれらが発するスタンダードはそれまでのスタンダードを超えるレベルだからこそ時代をも超えてしまう。共感の力は圧倒的で不変的だ。どっちがいい悪いではなくて、それぞれが強く共鳴なり反発しあうことで双方高めあい、圧倒的な表現になってきたのだなあと思う。

こういうライバルの構図っていろんな場所であるよね。ビジネス、会社、趣味、生活、生き方。ママ友(笑) ライバル心ってさ、偏るとただの嫉妬心や妬みになりがち。 妬みや嫉妬は誰にもあるものだけど悲しい。間違ってはいけないのはライバル心は他人と自分を比較することじゃない。ものさしは自分一つでいいんだもん。

自分の根っこ(ものさし)を持ちつつ、どこかいつも意識するライバルっていうのがそれぞれに一人でもいるといいような気がする。相手の活躍を期待しつつその反面、自分の尺度で「負けたくない」っと思うような仲間でもありライバルが。

「生涯のライバル」  そんなふうに言える仲間が周りに明確にいる、と思える人は、ある意味、幸せで刺激的に生きれるのではないだろうか。

あなたには「生涯のライバル」といえる人がいますか?

自分の道をすすみながらも、きっとどこかしらでそのライバルの存在が大事な羅針盤になるかもしれないし、その羅針盤でもっと視野が広い豊かな道が見えてくるかもしれません。

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